ニュースな日々

アクセスカウンタ

zoom RSS 改めて、東日本大震災考。

<<   作成日時 : 2013/06/29 21:29   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

今日は所属しているヨットクラブのイベント運営のために
久しぶりに逗子海岸へ行きました。
クラブ員勧誘のための試乗会なのですが、お客様とアテンド役の部員が
海に出ている間、私ともう一人の部員は「丘待ち」(陸で待っていること)。
いつ戻ってくるかわからないので、マリーナで海を見ながら
話しこんでいました。
時間がたっぷりあったので、最近の仕事の話から気になるニュースの話など
じっくりとたくさん話しました。
その中で、3.11の時にどうしていたか?という話題になったわけですが
彼の言葉に、はっとさせられました。

「自分の個人的な意見なんだけどね。自分たちの祖父母の代以降は
両親たちも戦争を知らない世代なわけだよね。
ある意味、あの大震災はその世代にとって、戦争の疑似体験になったんじゃないかなってそう思うんだ。」

この言葉を聞いた瞬間に「あぁ、そうだ」と思い出したのです。

震災の後一週間ほどで、私は仙台の取材拠点へ派遣されました。
まずは現場を見てから仕事をしようと、到着したその日のうちに
総局長にお願いをして、2時間だけ外出させてもらい、
電波状況の確認も合わせてするということで、制作部の部員と一緒に
津波の被害を受けた荒浜地区へ向かいました。

タクシーの運転手さんが地元の方で、300人以上の方がなくなった現場や
ここに何があったかを丁寧に案内してくれましたが
私と同僚はただ「ひどい・・」という言葉を発したきり、
一言も話せなくなりました。

そこはまさに、「戦場」。
なにもかもが根こそぎ流されてしまった見渡す限りの水浸しの風景。
建物らしきものはほとんど目に入らず、廃墟と大量の材木や生活用品、
ぬいぐるみやランドセル、小学校の校門前に流れ着いた泥まみれの炊飯器。
ここが交番だったと言われても、にわかには信じがたい残骸。
食卓に転がったポットや食器が、窓と屋根がすっかりなくなった家の跡にそのまま外から見える状態で残っていたところもあって、
ここに確かに人が生活していたんだと、そう信じるしかないんだなと
思いました。

言葉は出ないものの「残さなくては」という使命感に駆られて
ひたすら切り続けたシャッター。
途中、海の見える桟橋へ出た時に、露出調整が全くできていなくて
それまで撮った写真が全部、まったく使えないことに気付いたとき、
自分がどれだけ動揺していたのかを思い知りました。
そこから撮った写真と合わせて、ほぼ100枚ほどの写真たちは
今も私のパソコンとDVDに焼かれて残っています。
どこに発表するわけでもなく、ただ手元に残しているだけなんですが
いつか誰かに、この事実を伝えたいという思いで残しています。

たった10日ほどの滞在中に、たくさんの出来事がありました。

現場に取材に行って帰ってきた記者たちが、ただだまって
トイレの掃除用の流しで長靴についた泥を洗い流していたこと。
100人もの人が出入りする総局のトイレを
毎朝誰かが、人知れず掃除し続けてくれていたこと。
避難所に届けられる新聞を被災者が奪うように受け取ってくれたと
眼に涙をためて教えてくれた記者。
前線本部を離任する際のあいさつで、「私には帰る家があって申し訳ない」
と口にしたきり、話せなくなった記者。
あたたかい食事がようやく入手できたとき、総局で起こった
スタンディングオベーション。
毎朝、ミニトマトのへたを取って大量に洗い、総局入り口においたかごに
盛って出してくれるお礼だと言って、食事をほとんど取れていなかった私に
毎朝、自宅で握ったおにぎりをそっと渡してくれた記者。

そういういろいろなことを、たった2年と少ししかたっていないのに
すっかり忘れていたことに、気付かされました。

私は、あの時何度も何度も、「この仕事を選んでよかった」と思ったのに
毎日の仕事に追われて積み重なった不満に、埋もれてしまっていました。

今日はとても大切なことを思い出せた一日になりました。
改めて、私にそれを気づかせてくれた彼に感謝します。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
改めて、東日本大震災考。 ニュースな日々/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる